八月の思い

8月6日午前8時15分、深大寺の鐘の音が青空を渡っていきます。調布市では、広島と長崎に原爆が落とされた日、全市民に黙祷を呼びかける放送があります。そして、ここ深大寺では、その呼びかけと共に鐘が打ち鳴らされ、原爆忌が執り行われます。

私の故郷は広島から山を越えた日本海側の浜田という小さな町です。昨年コロナ禍で会えないまま逝ってしまった父は、大学時代合唱部だったこともあり、歌うことがとても好きな人でした。9年前、広島でうたごえ全国祭典が開催された時のことです。夕方、合唱を聴きに来てくれた父と広島の町を歩いていると、相生橋にさしかかった所で、戦争中に広島を訪れたことがあるのだと、父は静かに話し始めました。私には初めて聞く父の思い出であり、父から聞いた最後の戦争の話でした。

昭和18年、父が9歳だった時、徴兵された父親が広島に寄港した際、母親と祖父と一緒に慰問に訪れたのだそうです。その時にこの道を行ったのだと。そして、その時とてもお世話になった恩人母娘が相生橋のたもとに住まっていたのだと。

先月田舎の母から届いた封筒に、たった1人で逝かせてしまった父が残した小さなUSBメモリが1つ入っていました。USBを開くと、父が残した幾百もの漢詩ファイルの中に「相生橋の思い出」というファイルを見つけました。父の呼ぶ声が聞こえたような気がしました。父がこの文章を記したのは5年前の8月7日。父は何を思い、この思い出を綴ったのか。深大寺の鐘の音を聞きながら、父と、父の思い出の中の母娘、広島、長崎、沖縄・・・世界中で戦に命を奪われ、家族を奪われた人々のことを思いました。鎮魂の鐘の音が、いつか平和の鐘の音として世界に鳴り響くよう、あきらめないぞと強く思いました。

父が長い間、独り胸の中に閉じ込めていた相生橋の思い出。「あの大恩ある娘さん親子の安否さえわからぬまま、七十余年の歳月空しく流れている。」と記した最後の言葉に、父の深い悲しみが思われます。

 

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相生橋の思い出 〜 広島宇品連隊へ父の慰問に

濱村 一也

昭和十八年の秋、父の好物のおはぎを作り、祖父と母それに小三の僕の三人は未知の広島へ出かけた。広島の市電に乗って不安そうな家族へ、一人の和服の娘さんが遠慮がちに話しかけて来た。私たちの事情を知った娘さんは宿泊するところが決まっていないなら今晩は私の家においでなさいと話しかけて笑顔で応対された。地獄で仏とはこのことだと、見も知らぬ人のご厚意にすがることになった。

その家は相生橋のたもとにあった。父の便りでも既に知っていたとおり面会の連隊も近かった。娘さんの家族は母子二人であった。
その夜、忘れられない出来事に遭遇することになった。夜に入ると俄かに暴風雨が荒れ狂いだした。強い風が窓を打ち始め大変な騒ぎとなった。畳をおこし、窓を塞がないと女手では防げないほどであった。幸いにも祖父が、力仕事が出来たので難を逃れることが出来た。今から考えてみると、その後受けた親切へのお礼らしいものもしてないので、この夜の祖父の手助けがせめてもの償いであったと自分を慰めている。

翌朝、雨は止んでいたので、風呂敷包を提げて相生橋を渡って父のいる連隊へ出かけて行った。強風にあおられながら歩いていると二階の窓ガラスの枠が落下してきて祖父の頭に当たった。高高帽子をかぶっていたので幸いにも軽い怪我ですんだ。
悪いことは重なるもので、胸を躍らせて連隊についてみると、腸チフスが出て面会謝絶。肩を落として宿に帰って娘さんに事の次第を話すと、またもや娘さんのご厚意を受けることとなった。
偶然にも娘さんの彼氏に当たる方が連隊の中尉さんで、時間を設定して便所で内密に面会できるよう取り計らってくださった。

この広島相生橋の一夜の出来事は、二年後の原爆投下へとつながって行く。相生橋は原爆投下の中心地となるのである。

あの大恩ある娘さん親子の安否さえわからぬまま、七十余年の歳月空しく流れている。

(2016.8.7)

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